ゲド戦記の感想と魅力を語り尽くす!あらすじ&5つの名シーンまで一挙公開!※ネタバレ解説

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『ゲド戦記』は宮崎駿の息子・宮崎吾朗監督の作品で、アーシュラ・K・ル・グウィン氏の小説を原作にした、2006年7月に公開された異例の1作!

公開当時は「宮崎駿の息子の作品ってどんなのだろう!?」と話題が持ち切りだった作品でもあり、また宮崎駿監督の絵物語『シュナの旅』もベースにしている長編アニメで、そのストーリー性の濃厚ぶりが特典です。

今回は『ゲド戦記』に隠された数多の魅力と、それに派生する独断の感想と、なかなか知れない本作の制作にまつわるエピソードと名シーンなども一挙に紹介します!

どうぞ最後まで、ゆっくりとくつろぎながらおつき合い下さい。

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『ゲド戦記』詳細

【DVD】『ゲド戦記』

監督:宮崎吾朗
販売元:ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント
発売日:2007年7月4日

【本】『影との戦い―ゲド戦記〈1〉』

著者:アーシュラ・K・ル・グウィン
出版社:岩波書店
発売日:2009年1月16日

概要

アーシュラ・K・ル・グウィンの小説『ゲド戦記』の主に第3巻の「さいはての島へ」を原作とし、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』を原案とした長編アニメーション映画。
宮崎吾朗監督・脚本の独自解釈によるストーリーとなっている。

―キャッチコピー―
・「見えぬものこそ。」(糸井重里)
・「父さえいなければ、生きられると思った。」
・「かつて人と竜はひとつだった。」

主な登場人物・声優

アレン(レバンネン)/声優:岡田准一
主人公。エンラッドの王子。17歳。真面目すぎる性格のために世の中の暗黒についてまで心を悩ませるうち、本来は心の〝光〟だった彼の分身が“影”となって去ってしまう。

テルー(テハヌー)/声優:手嶌葵
ヒロイン。顔に火傷の痕がある少女。テナーと共に作物や羊を育てて暮らしているが、特に自分の命を大切にしない人間には容易に心を開かず、両親に虐待された末に捨てられた辛い過去を持つ。

ハイタカ(ゲド)/声優:菅原文太
アースシーの大賢人。世界の均衡が崩れつつある事を察知し、アレンと共に災いの源を探る旅に出る。頬に傷がある。

テナー/声優:風吹ジュン
ハイタカの昔なじみで、彼のよき理解者。ゲドという彼の真の名を知っている。

クモ/声優:田中裕子
永遠の命を得るために、禁断の生死両界を分かつ扉を開いた魔法使い。かつて魔法を濫用したが、ゲドに阻止されたため、彼に復讐する機会をうかがっている。

国王/声優:小林薫
エンラッドの賢王で、アレンの父。
賢王の名にふさわしく、国民のことを常に考えており、国土の各地から報告される異常事態に憂慮していた。

王妃/声優:夏川結衣
アレンの母。国を継ぐものとして、アレンを厳しくしつける。

女主人/声優:倍賞美津子
都城ホート・タウンに住む元まじない師。現在は魔法を信じられなくなり、模造品の生地を売っている。

ハジア売り/声優:内藤剛志
常習すると死に至るハジアを扱う商人。ハジアとは麻薬の一種であり、アレンに気安く近づきハジアを売りさばこうとする。

ルート/声優:飯沼慧
エンラッド国王の側近の老魔法使い。
世界の均衡が崩れつつある事に憂慮している。

公開までの流れ

監督就任の経緯
監督の宮崎吾朗の父親である宮崎駿は『ゲド戦記』の古くからのファンであり、彼の作品は『ゲド戦記』から大きな影響を受けてきた。

『ゲド戦記』をジブリで映画化したかったプロデューサーの鈴木敏夫は、ジブリ内で『ゲド戦記』の映画化を検討する研究会を立ち上げた。

当初のスタッフは鈴木とプロデューサー石井朋彦、有力な若手アニメーターと宮崎吾朗。
その時点では吾朗は美術館館長としての参加だったが、次第に研究会の中心人物として動くようになっていった。

―海外での反響―

第63回ヴェネツィア国際映画祭で特別招待作品として上映。

キャッスルロックは「アニメーションはスムーズで、緻密なキャラクターデザインではあるけれども、吾朗の映画は父親の映画における創造性と物語性芸術の高みには達していない」と評した。

―国内での反響―

2006年度の最低映画との評価を、それぞれ独立した映画評論雑誌5誌から受けている。

多くの映画評論家は、この作品に厳しい評価をした。

2008年7月11日に日本テレビの金曜ロードショーで地上波初放送された。近年のジブリ作品の地上波初放送の視聴率は20~30%台がほとんどだが、本作品は16.4%(関東地区・ビデオリサーチ)と低調だった。

主題歌

主題歌「時の歌」
歌:手嶌葵
作詞:宮崎吾朗・新居昭乃
作曲:新居昭乃・保刈久明

アルバム『ゲド戦記歌集』収録。
劇中挿入歌「テルーの唄」
歌:手嶌葵
作詞:宮崎吾朗
作曲:谷山浩子/編曲:寺嶋民哉

『ゲド戦記』原作との相違点

影の意味
原作3巻にアレンの影は出てこない。鈴木敏夫が『ゲド戦記』のテーマに触れる入り口として導入を提案した。
原作1巻の影の物語をハイタカからアレンに移植し、影の役割も変わっている。
原作における影は、光を受けた時に認識する事ができる、様々な受入れがたい心の傷(良心の呵責等)や、結果的に自分を害する事に繋がる弱い心(憎しみや傲慢等)である。
少年ゲドが影から逃げるのをやめて正面から向き合ったとき、彼は影が自分の一部であることを悟り受け入れ全き人となる。

アレンとゲドの関係
映画ではアレンが心の闇に支配されて国王(父)を殺害し国を出奔、そしてハイタカに出会って旅に同行するという展開になっているが、原作ではアレンは、エンラッドや諸国の異常を知らせるよう父に命じられて、ロークの大賢人たるゲドに会いに行き、そして2人で旅に出る流れになっている。

アレンの父殺し
アレンが国王である父親を殺すという設定は原作にはなく、映画オリジナルである。
劇中、アレンが父を刺したのと同じ構図で、アレンがハイタカに斬りかかるシーンもある。
脚本家の丹羽圭子のインタビューでは、当初アレンはおかしくなった父親に殺されそうになり国を飛び出す、というシノプシスがあったが、鈴木が「今の時代を考えると、息子が父を刺すほうがリアルだ」と発案し、吾朗が取り入れたと言う。

テルーの描写
映画ではテルーは火傷の跡こそ描かれているものの、基本的にジブリ作品におけるヒロインのデザインを踏襲したものとなっている。

物語の世界
映画ではホート・タウンとその周辺で物語が進められるが、原作においてはゲドとアレンは辺境の島々から死後の世界まで、アースシーの世界を縦横に横断している。

物語の解決
原作では、誰か悪者を暴力で倒す事によって物語の解決を図ろうとはしていない。
本作品の映画の公式パンフレットに『ハイタカはクモという魔法使いが生死両方を分かつ扉を開け、それによって世界の均衡が崩れつつあることを探り出す』と記載されているとおり、世界の均衡を崩し、人々の頭をおかしくしているのは、クモである。

原案『シュナの旅』との関係

プロット
ストーリーの前半で、主人公の少年は悪者に捕まったヒロインの少女を助ける。
そしてストーリーのラストでは、心の闇に沈んでしまった主人公の少年が、ヒロインの少女によって心の光を取り戻す。
これは本作品と『シュナの旅』に共通するプロット。

人狩り
人狩りに捕まって首輪を付けられているシーン。
また、人買いの車から助けられた際に、同時に枷(かせ)をはずされた同乗の犠牲者達が、再び捕まるという恐怖のために動けないでいるシーンは『シュナの旅』とほぼ同一である。

旅の風景
物語の前半で出てくる「砂漠の上に打ち捨てられた巨大船」の風景、また「人々が捨てて去った村の家を覗き込むシーン」は『シュナの旅』と構図が全く同一である。

ヤックル
アレンの馬はシュナの愛畜ヤックルに酷似している。
宮崎吾朗も「あれはヤックルみたいなものです」「もののけ姫ではなくシュナの旅を参考にした」とインタビューに答えている。ただし2本の角は製作過程で取ってしまった、と言っている。

原作者の反応

原作者のル・グウィンは試写会後、吾朗に感想を問われ「私の本ではない。吾朗の映画だ。」と述べた。

ル・グウィンはこのコメントの中で、「絵は美しいが、急ごしらえで、『となりのトトロ』のような繊細さや『千と千尋の神隠し』のような力強い豊かなディテールがない」「物語のつじつまが合わない」「登場人物の行動が伴わないため、生と死、世界の均衡といった原作のメッセージが説教くさく感じる」などと記した。

原作にはない、王子が父を殺すエピソードについても、「動機がなく、きまぐれ。人間の影の部分は魔法の剣で振り払えるようなものではない」と強い違和感を表明している。

引用元:ゲド戦記 (映画)
参考元:ゲド戦記

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2分でわかる『ゲド戦記』のあらすじ

生死の境界を越えて、生人のリクエストにより黄泉から死人を甦らせてきた「クモ」という魔法使いは永遠の命を求めるために、それまでその魔力を押さえつけていたハイタカ(ゲド・アースシーの大賢人)に反抗し始め、また世界平和のバランスは崩れた。

とき同じくしてエンラッドの王子・アレンは自分の心の中の光(正義の部分)を失い、代わりに闇の部分が大きくなって、自我喪失に近い形となる。

さらにその頃、多島海世界「アースシー」で事変が起きていた。架空の鳥獣・竜が人間界に現れて共食いし始め、万物の名前を記憶している筈の魔法使いはその全ての名前を忘れてしまう。

アレンとハイタカはホート・タウンという街でテルーに出会う。
そのかつて美しかった街は、今や麻薬や人買いが横行しており、過去からは考えられないほどに荒んでいた。

その街でアレンは、人買い・ウサギに襲われていたテルーを助けるが、逆に自分が捕まる。そして奴隷として今度はアレンが売られそうになった。

その窮地をハイタカが救い出し、その後ハイタカはアレンを連れて、ある国の巫女だったテナーの家に連れていく。そして、そこでともに暮らすことを決意した。

その家には親に捨てられたテルーも住んでおり、アレンはそこで皆と一緒に田畑を耕したりしながらいっとき平穏に暮らす。

そんなある日、そのテナーをクモが誘拐した。

ハイタカに復讐を目論むクモは、テナーを人質にしてハイタカをおびき寄せ、そのまま息の根を止める算段だった。

その事変に引き続きアレンも、もとより心に宿していた闇の部分に弄ばれ、クモの毒牙にかかる形で城に幽閉される。

ハイタカはクモとの決着を一気につけようと城に入ったが、入った瞬間、その魔力を奪われ、逆に捕らわれてしまう。

唯一、テルーだけが自由に動ける身となる。

テルーは過去に、アレンの「影の部分」と出会っており、そこで〝唯一クモの闇の部分を滅亡に導く魔法の剣〟を授かっていた。

そしてテルーは単身で城に忍び込んでアレンを説得し、アレンが本来持っている心の光を呼び覚まそうと努力した。
その努力によってアレンの心に正義が芽生え、また本来の力をもってクモを永久に葬ろうとする。

だがクモは最後の足掻きのように城全体を破壊し、その魔法の力でアレンをあべこべに葬ろうとする。

生死の瀬戸際に立たされたアレンは窮地に陥るが、テルーはそのとき元の姿・竜に変身し、逆襲してくるクモを葬った。

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『ゲド戦記』7つの魅力

【その1】人と竜が1つになる

「あり得ないことが起こる」、このフレーズを元に『ゲド戦記』のボディーコピーはち密に練られ、それはまるで現代の人間を象徴するかのような、そんな暗躍するベースが立てられています。

なかなか普段生活していて〝思いつけないようなこと〟を発想の起源とし、その発想のタネから繰り広げられるストーリーの全般は、やはりとても濃厚な世界観に彩られます。

竜という伝説上の生き物をあえて引き合いに出している点に、まるで現実逃避するような「現代の風潮に嫌気が差している人間」を暗示しているようで、それでいてストーリーの要所には〝現実とアニメの世界とをつなげる架け橋〟のようなものが綿密に敷かれている…。

この辺りの作品に採られた暗喩的な象徴を、ぜひ本作をご覧になりながら追究してみて下さい。

【その2】幻想的な風景

竜の姿もそうですが、全てのキャラクターが登場する場面の景色がとても幻想的で、その幻想風景の中を躍動するキャラクターのあり方もとても新鮮で魅力的に映ります。

いろいろな場面に移り変わるストーリーを観ても、その幻想をベースに敷いた美しさは健在であり、たとえストーリー背景が残酷なものでもその「美しさを持つ夢の世界観」がフォローするような、そんな後味の良い作品に仕上がっています。

ジブリアニメの立役者・宮崎駿監督の作品に匹敵するこの幻想さ加減を、どうぞ作品を実際にご覧になりながらご堪能下さい。

【その3】アニメの世界らしからぬ現実的で、重厚なストーリー軸

『ゲド戦記』のテーマはやはり、『もののけ姫』でも見られましたが〝生きること〟にあると思います。
人は人生を通してさまざまな境遇に出会い、その境遇がたとえ暖かいものであっても冷たいものであっても、その人生を「自分に与えられた人生」として許容し、ただ生きていく他ありません。

そこに「死よりも苦しい現実」が待っていることもあります。

人は「死ぬこと」を経験したことがないですから、その苦しみがどんなものなのか、よくわからないものですが、それほどに冷遇に対する苦悩をもって人生を生き、また自分の人生の一途を疑うことなく辿っていきます。

この「疑うことなく」というのは、おそらく〝与えられた命を全うするしか、人には他に術がないから〟でしょうか。

このような重厚で、また全ての人に共通・共有される奥深いテーマが、本作のメインストーリーに組み込まれています。

ぜひこの辺りの感動とそれによる経験を、あなたの心で受け止めてみて下さい。

【その4】それぞれのキャラクターの立場が、暗示的に現代を風刺している?

『ゲド戦記』に登場するキャラクターの立ち位置と環境は、なぜか現代人のそれに深く共鳴しているような気がしてならないのです。

共鳴というか共通というが、現代の人間に課された悲しさのようなものが、「1人の人生」を舞台にし、人それぞれの運命によって形を変えていくというような、何か興味深くもお堅い、豊かな感動を秘めているような気がします。

「農民は田畑を耕さなくなり、職人は技を忘れた…」

というボディーコピーに見られたような、科学文明によって豊かになり過ぎた現代人の末路のようなものが、本作の世界観の根幹にやはりあります。

そしてその〝末路〟が喜ぶべきものか悲しむべきものなのか、それさえわからない超自然的な脚色が、本作のプロットをその軸から支え上げているような気さえします。

どうぞこの辺りも吟味してみて下さい。

【その5】孤独を描いた人の魅力…

これについては語っても語り尽くせないほどの思いがあり、思わず「…」とタイトルしてしまいましたが、人は誰でも必ず〝人生における孤独の部分〟を持っています。

そしてその孤独による悲しみをときに慰め合ったり、またそれを過剰に意識し吟味し尽くすことで、「自分の人生における孤独はどこからくるのか?」という哲学的な思いを持たされます。

さらにこの〝人生における孤独〟は、とても身近なところからやってきます。

テルーの場合は「親に捨てられた」というところからきて、アレンは「過去に罪を犯した、もう自分の正義は世間に通用しない」といった心の闇からきています。

またつい悪者として見られがちの「クモ」ですが、彼にしても地上で生きていることに変わりなく、それゆえ生きる上での大小問わずの悲しみや苦しさは、人間と同様に持っています。

つまり全てのキャラクターが現実による喜怒哀楽を受け、またその延長において自分の末路を見つめています。

この点に〝人が共有する孤独の正体はいったい何なのか?〟を探究できる、誰もが共有できる不変の魅力が現れます。

【その6】キャラクター同士のつながり方

ハイタカとアレンは国の存続を維持する(国を救う)ために出会い、それから2人で旅に出ます。
そのアレンは実の父親を殺害しており、このことからアレン自身とその父親との間には何らかの確執のようなもの・殺害を避けては通れないどうにもならない事情があったことが想定される。

世界は魔力によって「人の価値観や道理の考え方に異常をきたす事変」をもたらされ、それによって全ての人間は殊に背徳の方へと姿勢を向けている。

テルーは両親に虐待されて捨てられた後、テナーのもとで育てられ、その後はテナーとハイタカを実質の両親のように見て過ごしていく。

そしてテルーはその心の傷の影響もあり、同じく心に〝闇〟という傷を持つアレンに歩み寄り、互いに励まし合いながら生きていく。

そうした人間界を彩るさまざまな境遇にある人を、クモという魔法使いに扮した得体知れずの存在が、全ての人の心の前に現れ、人の理念や信仰を自在に折り曲げていく。

このような単純なようで広過ぎる世界観を持ち、本作『ゲド戦記』のストーリーは進みます。

それぞれのキャラクターが織りなす〝関係模様〟の深みが、ストーリーが進むにつれて浮き彫りになり、またその浮き彫られたキャラクターそれぞれの存在が、「自分の生き方や人生の末路」について考え出します。

この辺りの「非常にリアルな人間世界を表す脚色」に、どうぞご注目下さい。

一層、本作に込められた構想の土台が見えてくるでしょう。

【その7】原作と違うからこそ面白い!

アーシュラ・K・ル・グウィン氏が先に原作『ゲド戦記』を仕上げていますが、映画版『ゲド戦記』はその内容から大幅に脚本を変えて発表されました。

「影」や「心の闇」の意味も原作と本作では微妙に違うし、「アレンとハイタカ(ゲド)との関係」も大きく違う。

とくに「アレンが父親を殺す」というシーンは原作にはなく、それによって「心の闇―罪の意識」が影響するアレンとテルーとの関係描写も異なり、『ゲド戦記』は原作から完全に離れた「オリジナル作品」として世に発表されました(本作の試写会終了時にも宮崎吾朗さんはル・グウィン氏から、「この作品は吾朗の作品だ」と念を押されています)。

たいていオマージュ作やスピンオフ作品というものは、その原作から構成・骨子の部分を大きく変えず、ベースや背景(人間・キャラクター関係を含む)をなるべくそのままにして、ただ「新しい世界観」をいろいろな角度から描くものが通常です。

けれど本作『ゲド戦記』はその映画版で、原作をはじめから突き放す形で作られた感がないでもなく、それゆえの面白さや現代に通じる興味深さ・感動が、少なからず原作のそれに比べ、形を変えて登場しているように思います。

この辺りが非常に新鮮です。

どうぞご機会のある人は、この原作と本作との違いに注目して、それぞれの相違点からどんな感動がやってくるかを追究してみて下さい。

いかがでしょうか。
本作『ゲド戦記』の魅力や面白さが少しでも深く伝わったでしょうか?
なかなか言葉では伝えきれない感動の数々は、やはり実際に本作をご覧になって味わうのが1番の近道になるように思います。
どうぞ本作をご覧になるときは、ここでお伝えした〝魅力の数々〟を片手にご賞味下さい。

さて次は、ご紹介しました〝魅力の数々〟を土台にした「名場面」を厳選して5つ、皆さんにお伝えしたいと思います!
どうぞ最後までおつき合い願えれば幸いです。

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『ゲド戦記』5つの名シーン

【その1】心の中にある、影の部分に怯えるアレン

ストーリーの前半になりますが、アレンは「過去に犯した父親殺し」のこともあり、その罪にまつわる心の闇の部分は終始つきまとってきます。

その自分に宿した影の部分に、アレンはただならぬものを見るかのように怯えて泣きます。

実際、アレンが泣く場面はハイタカに抱擁されるシーンと、テルーの唄を聴いているときの2シーンが主ですが、アレンの表情を見ていると「いつも泣いている…」ような正直がさまよいます。

夕暮れと湿地帯のような泉を背にしたアレンの、得も言われぬ表情をどうぞご覧下さい。

【その2】アレンがテルーを抱擁するぬくもり

アレンの本当の名前が「レバンネン」であったことがわかるシーンで、それまでの自分の心の咎のようなものがふんわり退いて、自分本来の正義と強さとを取り戻す場面です。

ここでテルーは、アレンに本来の正義の強さと、生きる意味のようなものを投げかけますが、アレンはそのテルーの本心から出る優しさに絆され、それまでの冷たい心境を忘れるようにテルーを抱擁します。

普段、生活している私たちのうちにも、こんな「抱擁したい・されたい場面」があるような気がして、視聴者でもまるで〝自分のこと〟のように感動を思わされます。

ぜひこのシーンの前後から、テルーとアレンの関係を吟味してみて下さい。

【その3】テルーの唄を聴いて、涙を流すアレン

ちょうどストーリーの中盤になりますが、テルーが1人で丘に立って唄うシーンです。

人の孤独を〝空を飛ぶ鷹の姿〟に見立てて唄ったような、何とも言えない感動を与えてきます。
寂しくも壮大で、その素朴な唄声がすんなり心に浸透してくるような、とても純朴な様子を表現します。

この唄を聴いていたアレンは、まるで自分の孤独を思うように涙を流します。
そのときの「自然に涙がこぼれ落ちるような姿」がまた何ともしんみりきます。

ぜひこのシーンだけはゆっくり見つめてほしいです。私的にテルーとアレンが登場するシーンで1番好きなワンカットです。

【その4】ハイタカが、アレンを諭しながら抱擁する

それまでどうしても心の闇を振り切れなかったアレンを、ハイタカが肩をしっかりと抱きながら、人の生き方や人生そのものについて説き明かし、まるで子どもをいさめるように励まします。

このときに見せるアレンの泣きじゃくる姿は、その言葉にまるで図星を突かれたような、心底から救われている様子を実感させるもので圧巻です。

このときのハイタカのセリフも実に素晴らしいもので、まさにアニメの世界を超えて、現実に生きる私たちの心にもズシンとのしかかる、いつまでも記憶する言葉に他なりません。

おそらく『ゲド戦記』のメインの場面は、このシーンになるように思います。

ここでもハイタカとアレンの切っても切れない関係のようなものが、ありありと見られることでしょう。

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【その5】テルーとテナー、畑に種をまく

実に素朴で何気ないシーンなのですが、このシーンは本作『ゲド戦記』の中でも非常に重要なシーンに思えます。

それは「魔法使い」や〝突拍子もなく飛躍したストーリー〟に現実味を持たせる、普遍的なワンカットに映るからです。

もちろん「人の心情の移り変わり」や「影の部分」を扱った人間同士の模様も現実的なのですが、目に見えて、はっきりと現実の素晴らしさを浮き立たせているのはこの場面です。

「農民は田畑を耕さず…」というボディーコピーにあるような「現代が従来の人間の生活のあり方」を忘れさせ、幾度となく〝科学の餌食となってきた人の心〟をまた復活させるほどの記憶が、この田畑を耕すという作業に映し出されている気がします。

なぜかこのシーンに映るテルーとテナーの姿が、もの悲しく映ってきます。

それは科学や文明の利器によって支え続けてきた現代のあり方が、「人が自分の体を使って人生を生きていくこと
の大切さを忘れさせていたからでしょうか。

どうぞこの何気ない風景に、「あなたが思う人間のあり方」を探究しみて下さい。

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『ゲド戦記』感想

私は『ゲド戦記』を放映後のDVDで観ましたが、「映画館で観ればよかったなぁ…」という感想がまず沸き上がってきたものです。

本作への批評を見てみるとなかなか酷評が多くあるようですが、私としては非常によい出来に思えます。

とても単純な目で見て言えば、その当時の「現代」をとても上手く把握していて、その当時に多くの人が煩っていた〝心の孤独〟のようなものを、実に純粋・純朴に描いている点が感動的です。

老若男女問わず、この感動が押し寄せてくることでしょう。

確かに絵的には〝ただきれいに仕上げている〟で終わってしまうのかも知れませんが、この作品の魅力は実に、その本筋―メインストーリー・テーマ―にあると思っています。

人が何を見て・感じて・聞いて・触れて感動するのか、また落胆するのかということが、そのままストレートに表現されているようで、またその喜怒哀楽を思わす人生の出来ごとを、それぞれのキャラクターがさまざまな境遇で迎えていきます。

このような「深くストレートにテーマを打ち出した作品」は、それまでのジブリ作品になかなか得られず、その視聴対象は主に子どもではなく「大人」に向けられているような、斬新な傾向も見受けられます。

主に扱っているテーマは「心」でしょうか?

どうぞ本作『ゲド戦記』に隠された「大人向けの感動」を、あなたなりに深く味わってみて下さい。

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